2012年4月23日月曜日

バールと私

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バール。釘抜きとして使われる鉄製のL字型の棒。

まだ言葉を覚えていない私に、親から生まれて初めて与えられたオモチャは、そのバールでした。

バールは釘抜き以外に、梃子の原理を利用して、マンホールなどの鉄の蓋を開けるときに使われます。

しかしそれだけです。

ひとつ持っていたとしても、ほとんど使う機会はありません。

幼い頃から、生まれたときから、私が人から与えられる物はいつもなぜかバールでした。

誕生日には、プレゼント用のリボンが巻かれたバールと、ロウソク代わりにケーキに突き立てられたバール。

当然、毎年ケーキに突き立てられたバールの数は、どんどん増えていきました。

5歳の誕生日には、すでにケーキはその重みを支えきれずにグチャグチャになっていたことを覚えています。

クリスマスも当然、靴下に突っ込まれていたバールがプレゼント。

靴下の形は、まるでそれを入れるために作られたかのようでした。

しかし、幼少の頃の私はそれを当然のこととして認識していました。

思春期になり、私に自我が芽生え始め、世間というものを知り始めた頃、私は初めてこれを普通とは違うことであるのではないかと思い始めました。

初めて友達のお誕生日会に行き、綺麗な色鉛筆や、手作りのクッキーをプレゼントされ喜んでいる友達を目の当たりにして、その思いは確信へと変わりました。

当然、ケーキには火の灯った普通のロウソクが刺されていました。

私はプレゼントとして用意していたバールを後ろに隠し、急遽、折り紙で作った花を友達に渡し、動揺を隠しながら、早々と友達の家を後にしました。

私は、その夜、両親にそのことを話しました。

「どうして僕の誕生日プレゼントは、バールなの?」

両親は、誕生日だから当然だと、お前何言ってんの的な顔をしていました。

しかし、私は、あるときから気付いていました。

母が父に、父が母に渡すプレゼントはネックレスやネクタイで、バールではなかったことを。

そんな両親に疑問を感じ始めた頃、私は初めて家族以外の人からプレゼントをもらいました。

バレンタインデーでした。

しかし、クラスのマドンナで、みんなが憧れるその娘からもらったものは、チョコレートなんかではなく、甘くもない、食べれもしないL字型の金属の棒、そう、バールでした。

その娘にも私は訪ねました。

「どうしてバールなの?」

バレンタインデーだから当然だと、やはりお前何言ってんの的な顔をしていました。

誰に聞いても答えはいつも同じでした。

ティッシュ配りをしていたはずなのに、私にはバールを渡してきたお姉さん。

初めて1人暮らしをしていたときに、「作りすぎちゃったから。」と、バールのお裾分けをしてきたお隣さん。

みんなでスキー旅行に行ったときの写真を配っていたのに、私にだけバールの写真を渡してきたマネージャー。

いつしかバールを受け取ることも事務的なものになり、バールを受け取っては燃えないゴミの日にまとめて捨ててを繰り返すそんな日々が日常となっていました。

しかし、何年かに一度、やはりなぜバールを渡されるのか再び疑問に思う日が訪れることがあります。

それが今です。

どうして?なんで?

なぜ私は、毎日何本も渡されるバールのために、子供用のゴルフバッグを持ち歩かなければならないのか。

なぜ私は、毎月「1」の付く日にバールをプレゼントされなければならないのか。

大人になって、お正月のお年玉のバールがなくなった代わりに、毎月「1」の付く日、特に11月11日には大量のバールを渡されるようになりました。

大量の燃えないゴミは、普通にゴミ置き場には出すことはできません。

会社で、暖かいコーヒーを頼むと、暖められたバールを渡されます。

熱いコーヒーに口を付けて「熱すぎるよ!」と上司が女子社員に怒鳴っている横で、私はそんなコーヒーの熱さとは比にならない、熱せられた鉄の熱さで、手を火傷することがあります。

机の上に敷かれた透明なマットは、バールのL字に溶けています。

なぜ私は、こんな目に合わなければならないのか。

こんな疑問を抱いたとしても、答えはいつも水の中。

1週間後には、またこんな疑問も忘れ、事務的にバールを受け取っては捨てる日々が訪れるのでしょう。

しかし、もう慣れました。いや、慣れたというよりも諦めたと言った方が正確なのかもしれません。

私が嫌なのは、私が死んだ後のことなのです。

私の生前を知る友人達が、私の愛する妻と娘が、まだ見ぬ娘の夫が、孫が、おそらく何本ものバールが敷かれた上に寝かせられた棺の中の私の上に、一本ずつ、一本ずつ、バールを手向けていくのでしょう。

燃やされて残るのは、私の骨と、溶けて鉄の塊としてひとつになったバール。

もしかすると、私もその一部と化しているのかもしれません。

そんなの死んでも死にきれません。

それだけは絶対に避けたいと、絶対に避けなければならないと思っている所存でございます。




そんな思いを込めました。

私の半年ぶりのリリースとなります、新曲『バールと私。』

え~来週の水曜日にですね、発売となりま~す。

初回盤は、オリジナルのですね、私のサイン付きバールが付いてきますので、みなさんぜひお買い求めくださいませ!!
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2012年4月21日土曜日

トイレから出てくる人を励ます人。

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おい。どうした。

そんな落ち込んだ顔して。

いや、俺が誰かなんてどうだっていいんだよ。

落ち込んでる人を見てられないんだよ俺は。

いや、今偶然お前がトイレから出てきたところ見たら、すごい落ち込んでる感じだったから。

どうした?なんかあったか?

あっ。もしかして、そういうこと?

あのな。いいか?

普通に生きてりゃウンコぐらいするさ!どうってことねぇよ!

ウンコしたくらいで落ち込んでんじゃねぇよ。

元気出せって!な?

えっ?違う?何が?

いや、だってトイレから出てきたら落ち込んでるから。

いや、いいか?ウンコをすることは、恥ずかしいことなんかじゃない。

別にそんな隠さなくても。

いや、分かってるって。

…したんだろ?…ウンコ。

いやもうお前は何も言わなくていい。

俺もさ。ウンコ…するんだ。

いや、まぁ当然っちゃ当然だけどさ。

俺もさ。今のお前みたいにウンコするたびに落ち込んでさ。

ウンコするたびに罪悪感に押しつぶされそうになってさ。

でもさ。出るものは出るんだよ。出るものは出るわけだからさ。

だから、いちいち落ち込んでたってしょうがないじゃん。な?

だからお前もウンコしたぐらいで落ち込んでんなよ。元気出せって。な?

なに?ウンコなんてしてない?

バカヤロウ!!それだけは言っちゃいけねえ。

例えそれがどんなに汚いものであっても、生みの親であるお前がその存在を否定してんじゃねえ!

お前が愛してやらなきゃ誰があいつを愛してやれんだよ…。



…いやいや、だから。いつまで強がってんだよ。

お前の気持ち分かるよ!お前の気持ちすごい分かるんだよ。

トイレで踏ん張ってるとき、俺いつも思うんだ。

「こうしてトイレでふんばってる今も、世界のどこかの誰かと排水管でつながっていて、同じように同じようなモノを同じ所から出してるんだな。」って。

そんなことを思ってるとさ。すごく…なんて言うんだろう?

国境なんてないんだなって。世界ってひとつなんだなって。

そして自分がすごくちっぽけな存在に感じてしまうんだよな。お前もそうだろ?

だけどさ。人間なんてみんなちっぽけな存在なんだよ。

そう。

さっきお前がお尻から出したものと同じようにさ。

だからそんな顔してんじゃねえよ。

お前は一人じゃない。俺がいる。みんながいる。ファイトだ!



…いや、だからー!

もう、ウンコしたかどうかなんてもうそんなことどうだっていいんだよ!

ウンコをすることが悪か、正義か…。

確かに世間から見れば、ウンコをすることは悪なのかもしれない。

ウンコをすれば罵詈雑言を浴びせられ、そこから差別が生まれることもあった。

過去にはアパルトヘイトや、カースト制度や、ウンコが悲しい出来事を引き起こしたのは紛れもない事実だ。

実際、俺もウンコをすることを完全に赦すことはできない。

悲しいけどな…。

でも、でもな。ウンコをすることが悪か、正義か。それはお前が自分自身で決めることだ。

お前はただ、唯々ひたすらに出すことだけを考えてればいいんだよ。

出して、出して出して。出し続けて出し続けて、

その結果、お前が悪だと思うのならそうだし、正義だと思うのなら、そうだ。

世間の風潮に流されるな。お前のその目と、その穴は何のためについている。

さぁ!もう一回出してこい!

よし!行って来い!




…っていう感じの仕事をしてるんですけど、部屋借りられますかね?無理です?

わっかりました~。


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